四條畷神社(大阪府四條畷市)の基本情報
四條畷神社の基本情報(御祭神、御利益、霊場、由緒、境内、御朱印、
四條畷神社の御祭神
楠木正行公
四條畷神社の御利益
心願成就
四條畷神社の霊場
- なにわ七幸めぐり
- 神仏霊場巡拝の道 61番(大阪20番)
四條畷神社の由緒
○ 御祭神・楠正行公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、不利を覚悟で南朝側に立って戦った武将、楠正成公の嫡男です。明治以降、父は大楠公、息子は小楠公と呼ばれ、親しまれました。
○ 明治になって、地元の神主たちが神社創建を嘆願。明治二十二年(一八八九)に現在地に創建の勅命が下り、四條畷神社という社号が下されました。
楠木正成と正成
悪党、楠木正成
大阪の河内の一豪族であった楠木正成は、朝廷や幕府に従わない「悪党」であったと言われます。
鎌倉幕府を倒すべく挙兵した後醍醐天皇は、夢で「南に枝を伸ばした大きな木の下にある上座があなたの席です」と言われました。目を覚ました後醍醐天皇は、「木」「南」を合わせると「楠」の字になると気付き、「楠」と言う者を探させました。そして見つかったのは、楠木正成でした。
後醍醐天皇に仕えた楠木正成が、「千早城の戦い」で千早城に籠城して、一千人の兵で数万の幕府軍を翻弄した話は有名です。
足利尊氏の裏切り
倒幕に成功した後醍醐天皇は、天皇を中心とし貴族を優遇する「建武の新政」を始めました。
ところが、「建武の新政」に不満を持った足利尊氏は裏切り、反旗を翻すのです。尊氏を高く評価する楠木正成は後醍醐天皇に、尊氏と手を組むように進言するのですが受け入れられません。
湊川の戦いと最後
まともに戦えば負けると考えた正成は、後醍醐天皇に、京都から比叡山に逃げ、足利尊氏が京都に入った所を包囲する作戦を立てるのですが、これも後醍醐天皇は拒否するのです。
楠木正成は負けを覚悟しながら、兵庫に向かいました。
途中、桜井の駅(大阪府島本町)で、嫡男の正行公に、「河内へ帰って国や母を守り、父に代わって天皇をお助けし、最後までお護りするように」と諭され、河内へ帰されました。(櫻井の別れ)
「湊川の戦い」を、50万の尊氏軍に対してわずか5万の朝廷軍で戦い、最後に自害しました。
最後に弟の正季と、「七度生まれ変わってでも国を守る(七生報国)」「七度生まれ変わってでも、朝敵を滅ぼす(七生滅賊)」と誓い、差し違えたと伝わります。
忠孝両全 〜 桜井の別れ
「桜井の別れ」を表した石像があります。
「忠孝両全」と書かれています。
「忠孝両全」は、君主への忠義と両親への孝行のどちらも果たすと言う意味です。
楠木正成公は死を覚悟し、兵庫(湊川)出陣に桜井駅において、当時11歳の我が子正行公との別れに、
「父の死後は足利氏の天下になるだろうがどこまでも正統天皇を御守りせよ。
それが父への孝行になるのだ」
と諭し天皇から賜った短刀を与え身も心も我が子に伝えて出陣されました。
これを「桜井の別れ」と言います。
貞仁両全
楠木正成公が亡くなり、楠正行公は悲しみ恐れ自害しようとしますが、母は、父の意思を継ぐように諭され思い止まります。楠正行公はこの12年後に忠義を果たし、四條畷で戦死します。
本殿前に、母の前に手をつく楠木正行の石像があります。そこには「貞仁両全」の言葉。
楠木正成の妻は「貞」と「仁」を合わせ持ち、妻としても母としても立派な人であったと言う意味で「貞仁両全」と言う言葉が銅像に刻まれています。像を贈った人が作った言葉です。
境内の様子
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四條畷神社の御朱印
(順に、なにわ七幸めぐり(バインダー、色紙))
四條畷神社の拝観時間
日の出から日没まで
(授与所は、9:00〜17:00)
四條畷神社の拝観料
無料
四條畷神社への行き方(アクセス・地図)
電車
- JR「四條畷駅」から徒歩15分
自動車
- 第二京阪道路 寝屋川南ICから13分
- 第二京阪道路 寝屋川北ICから20分
- 阪神高速 水走出口から23分
四條畷神社の駐車場
四條畷神社の所在地・連絡先
所在地 | 大阪府四條畷市南野2-18-1 |
電話番号 | 072-876-0044 |
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