道明寺天満宮(大阪府藤井寺市)の基本情報
道明寺天満宮の基本情報(御祭神、御利益、霊場、由緒、境内、御朱印、
道明寺天満宮の御祭神
- 菅原道真公(学問の神様)
右大臣まで出世するが濡れ衣を着せられ、太宰府に左遷され亡くなる。怨霊となったが祀られて鎮まり、「天神さま」と呼ばれて学問の神とされた。 - 天穂日命 (天照大神の御子様)
天照大神と素戔嗚尊の誓約を行なった時に天照大神から二番目に生まれた神さま。地上世界を平定しようとしたとき、大国主命の元に派遣された。出雲国造や土師氏などの祖神となったと言われています。土師氏は、道明寺一帯を本拠地としていました。 - 覚寿尼 公(道真公のおば様)
菅原道真の叔母で道明寺に住んでいた。道真は道明寺を故郷と呼び、彼女を慕って度々会いに来ていた。
道明寺天満宮の御利益
学業成就・合格祈願
道明寺天満宮の霊場
- 神仏霊場巡拝の道 第58番(大阪17番)
- 菅公聖蹟二十五拝
道明寺天満宮の由緒
野見宿禰と土師氏、菅原氏
○ 相撲の祖といわれる 野見宿祢 は天穂日命を祖とします。野見宿禰の野見は、石を削る工具であるノミにも通じます。
野見宿祢が人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、生きた人を埋める代わりに古墳に埋める事を提案した功績から、垂仁天皇は「土師」の姓と道明寺一帯を所領地としてを野見宿祢に与えました。
つまり、天穂日命が土師氏の祖なのです。
この土師氏からはやがて菅原氏が分流していきました。
土師氏の氏寺
○ 大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は土師氏が本拠地としていたので、「土師の里」と呼ばれました。道明寺天満宮の前身は、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社で、道明寺の前身は土師寺です。
○ 土師氏は埴輪の製作や古墳造営に関わったと言われています。
古墳を作った理由
なぜ古墳を作ったのか?
権力を誇示する為だとか、宇宙人との交信する為(笑)だとか、色々な説があります。
小名木善行さんが面白い説を教えてくれています。
現実的で合理的な理由です。
「古墳と言うのは、灌漑事業の残土だ」という説です。
農地を開墾する為には、山や斜面、湿地を削り、水を引く為に溝を掘らなければいけません。その時に出た残土を盛って山を作り、感謝を込めて為政者を祀ったのが古墳なのです。
その証拠に古墳のある場所と農地が開墾された場所が一致しています。開墾は最初は大規模で、古墳も大規模でした。それが時代が進むに連れ農地が増えて段々と開墾が小規模になり、古墳も小規模になります。
つまり古墳を作るのは公共工事だったのです。
これは戦前なら常識でした。
僕にとって現実的で合理的で一番ふに落ちる説です。
菅原道真と道明寺
○ 平安時代、土師寺に菅原道真の叔母である覚寿尼が住んでいたので、道真は度々土師寺に訪れました。道真が詠まれた漢詩の中で、この地を「故郷」と呼ぶほど慕われていました。
菅原道真は36歳のとき十一面観世音像を彫り、40歳には五部の大乗経を写されました。
太宰府に流される菅原道真
○ 菅原道真は57才にして従二位右大臣に出世するのですが、無実の罪を着せられて大宰権帥 に左遷が決まり、太宰府に向かう途中、この土師寺に訪問します。そして、土師寺で覚寿尼公との別れを惜しまれ、自らの姿を荒木に刻まれました。
そして903年、菅原道真は59才で亡くなられました。
道明寺天満宮
○ 947年に、菅原道真が自ら刻んだという十一面観世音像を祀って、土師寺を道明寺と名前を変え、土師神社内に天満宮も創建されました。
「道明」とは、道真の号である「道明」に由来します。
○ やがて明治に入り、神仏分離令によって、道明寺は分離し、道を隔てた西隣の地に移転し、現在に至ります。また1877年には明治天皇の行幸の際、行在所となりました。
境内の様子
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道明寺天満宮の御朱印
(順に、神仏霊場巡拝の道)
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道明寺天満宮の拝観時間
拝観時間:9:00〜16:30
道明寺天満宮の拝観料
無料
道明寺天満宮への行き方(アクセス・地図)
電車
- 近鉄「道明寺駅」から徒歩3分
自動車
- 西名阪自動車道「藤井寺IC」から5分
道明寺天満宮の駐車場
道明寺天満宮の所在地・連絡先
所在地 | 〒583-0012 大阪府藤井寺市道明寺1-16-40 |
電話番号 | 072-953-2525 |
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